お賽銭はなぜ払う?無宗教でも納得できる理由を探してみた

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この世はすべてお遊びです

初詣、七五三、安全祈願など神社を利用する理由は様々です。

困ったときの神頼みでも、本当に神様は助けてくれるのでしょうか。

 

「スッゲー調子いいヤツ!」なんて考えなえないから神様仏様なのでしょう。

もし信仰心のないタイプでも幸せになれる方法があったらイイですよね?

 

今回はサクッと「形だけでも取りあえずはお参りします」という人に神効果について書いてみます。

 

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投げ銭は誰のため?「お布施」とは寄付だけじゃない

神社でお参りをする行為のいっかんとして賽銭箱(さいせんばこ)に小銭を入れる風習がありますよね。どんな意味があるのでしょうか。わたしなりにちょっと調べてみましたよ。

 

布施行について

布施行(ふせぎょう)を簡単に説明すると、「お坊さんがお金をもらって歩く修行」のことです。

 

何でお坊さんはお金をもらい歩くのかというと、人々を助けられるし、お寺運営費もまかなえるからなんです。

 

「え~それっておかしくないですか?」って思うところでしょう。

 

お坊さんや弟子たちが生きるために食事はかかせません。寺を直したり管理するのにはお金が必要なのは分かります。

 

でもなぜ「お布施をする行為」がお金を出す側の人のためにもなるのでしょうね。

 

苦しみから開放される?

「人間が苦しむ根源はからくるものだよ。だから欲に執着する心を手放す手伝いをしているんです」という考え方があるようです。

 

もっというと、

「幸せになろうと欲にしがみつくことが、かえって苦しみになっている。本人が価値があるって思っていたり失いたくはないことをスパッと捨ててしまえば、きっとイイ事ありますよ」

という理屈だそうです。

 

この考え方は仏教にかぎらず他の宗教でもよく聴くはなしです。なのでお坊さんは庶民に礼などはいいません。堂々とされています。

 

人々が徳になる行為の手助けをしているのだから当然といえば当然のことなのでしょう。(最近では少し変わったそうです)

 

そうなると、

神社の賽銭箱(さいせんばこ)に小銭を投げ入れることって「お金を取られる」のではなく「お金を捨てる代わりに自分自身が助けられている」ってことになるのです。

 

天に貯金をする

と、同時に、徳を積む結果にもなるとも言っています。

 

「徳を積む」をいいかえれば「いい事貯金」のことです。自分が大切にしている一部を差し出す行為がやがて良い結果をもたらすとも言われています。

 

「そうだったのかお賽銭」という分けです。

 

そうなると、「10¥=縁が遠のく」とか「5¥=お縁があるように」ではなく、自分が痛いと感じる金額を捨てることに価値がある様な気がしてきましたよ。

 

たしかに言われてみればその通り?

みんながやっているコトや持っているモノを所持してないと、すっごく不安だし疎外感です。

 

お金も無いのに背伸してローンを組み安堵感を手に入れたりします。その結果「よく見られたい」欲のために、他ではもっと苦しい思いをしています。

 

都内の一等地に住み、高級な食事をし、ブランドで身を固め、高級外車を乗りまわし、富裕層たちと優雅な生活をする人が突然、何かの理由で収入が減ってしまうことはよくある話です。

 

そして、いままでのスタイルにしがみつき、もがいていしまう。

仕方ないんです。人の行動は急に変われないものだからです。

 

「そんなコトもうやめたらいいのに・・」って他人は思ってしまうでしょう。

 

素直に状況を受け入れて、自分に見合った生き方に変われる人には心の平穏がやって来ると思うのです。

なぜなら、もう見栄を張るために本当に辛いことを我慢する必要がなくなったからです。

 

▼人は衣食住の最低ラインを満たしてないと幸せを感じないように出来ています。
リンク失敗しないマイホーム購入論は心理学者マズローが教えてくれる

 

 

ここに「一歩も動けず、目も見えず、耳も聞こえず、しゃべれない大富豪がいた」とします。

 

「もし全財産を放棄したとしたらあなたは五体満足になれますよ?」って言われたら、大富豪はどんな行動を選ぶのでしょう。

 

「そんなもんくれてやる!」ってわたしなら考えます。そして、一からまた自己実現を目指すことでしょう。(「金じゃない」とか目標も変わると思う)

 

もしかしたら、セレブだったころは何とも思わなかったことでさえ幸せに思えてしまうかも知れません。

 

欲の張り合いは精神的にも大変キツイものです。

 

「負けるが勝ち」ではないですが、自分の方から一歩引いて相手に譲った方が結局は楽だったという経験をされた人もるかと思うのです。

 

椅子取りゲームに参加しないこと。名誉や景品なんか欲しがらずに、ただその様子をはたから眺めて楽しんでいればいいのかも知れませんね。

 

おわりに

日本で生きている以上、神様仏様への拝み系は欠かせない習慣です。

 

疑問を持って神社にお参りするよりも、「ひょっとしたら良いことが起きるかも?」って思って、厳粛(げんしゅく)な気持ちになるのも悪くはなさそうです。

 

「神様はいる」とか「いない」とかよりも、まず考えるべきは、自分の欲をどうコントロールするのかだと思った次第です。

 

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