社会不安気味な私は苦手から逃げたり立ち向かっている!

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わたしは緊張しがちな症状によって、様々なことを避ける人生を送っています。それでも生きて征くには克服する必要があり、その選択に迫られています。

ざっくりと生い立ちから現在に至るまでを、プロフィールとして書きました。同じ様な人がいるのなら、ぜひとも負けないでくださいね。

ひどい「上がり症・緊張」でドキドキする様になった

幼少期の記憶

いつの頃からだろう。わたしはある条件下に置いて上がる様になった。おそらくその根源は、暴力的な父親と、世間体を気にしすぎる母の影響とだと、やっと原因が分かった。

子供たちには手を挙げない人だったけど、機嫌が悪いと母に手を挙げる始末。酒乱のすわったあの眼は「何をするのか分からない」という恐怖。いつも父親の動向が心配でしかない日々。それは母の繰り返すネガティブな言葉から洗脳されたのだと最近腑に落ちた。

よく近所の人や電話相手ともめていた。外から大声がするとやるせない。そんな親を持つ恥ずかさとでハラハラしたものだ。「きっと家は笑いものだ」自分の運命を悲観した。他人の機嫌を敏感に察知する癖が、今も尚わたし自身を苦しめている。

「俺はこの親がいる内は結婚はしない」とさえ思っていた。

父の中ではまだ戦争(ww2)は終わってない様だった。とにかく負けず嫌い。それなのに商売をしていた。最初は上手くいくのに途中から喧嘩してダメになってしまう。父の中での理想状態ではないからだ。父もまた自身の母の被害者だと思う。受け継いだ固定観念を植え付けられ、それに成れないで苦しんでいたのだろう。

感情とは固定観念によるものです(ABC理論)。脳科学や心理学の本によるとそうなるらしい。「この場所が悪い!あそこなら上手くいく!」と他責主義者の父。なのでよく引っ越しを繰り返してもいた。そんな分けでわたしは2度ほど転校している。

転校先で

低学年当時は標準語県内。引っ越した先は北関東特有の訛り(なまり)がる田舎町。幼いわたしにとって恐怖でしかない。だって何を話してるのか分からないからだ。

転校先の担任は、かなり年配者で訛りが強い人。出来の悪いわたしは、先生の質問に答えられず机の前に呼び出され、「前の学校に行っちめぇー!(帰ってしまえ!)」とみんなの前で恥をかかされた。絶望せず登校拒否にもなった。ほどなくして持ち前のひょうきんさによって、前学校の様なポジションに返り咲いた。

それから今度は小学高学年の時、いま現在わたしが住むこの町に、また引っ越して来た。やはり最初の担任からひどい仕打ちを受けた。「お前がやったのを見た人が居るんだぞ!」わたしが低学年の児童をいじめていたという内容だ。全く見に覚えがない。まだ友達が居ないわたしは近所のその子の家によく遊びに行っていた。

基本わたしは人見知り。最初こそ大人しいタイプだけど、馴れるクラスのムードメーカーに成り上がるのがいつものお約束の流れ。だから「コイツは大人しい人」と思う人もいれば、「コイツはおしゃべりで面白いヤツ」に分かれているAB型人でもある。

そして中学に上がると今度は数学の先生によく出汁にされた。わたしの親の仕事を関連付けて笑いを取ること。わたしは当時から算数でさえ苦手な頭脳の持ち主。簡単な質問に答えられない恐怖で、いつも緊張していたのは今でも忘れない。指し棒を持ち「この問題を誰に答えさせる」かジロっと目配りをするその鋭い眼光が恐ろしい時間だった。母に植え付けられた「村社会の恥の文化」によるものだと、この頃は知る由もない。

高校で他人ファースト思考になる

わたしは高校のとき集団無視の体験をした。いままで仲良かった人が急にわたしに寄り付かなくなった。それは自分たちを守ることが発端だったのだろう。

わたしはいわゆるスクールカースト上位(やんちゃ系やイケメン系)のグループに居た人だと思う。目立つ存在だったのだろう。生意気に見えたのか、ひょんなことからわたしは不良の先輩達に目をつけられたからだ。

大人の世界でも目立つことをする前に、挨拶に行くのが礼儀になっている。でもわたしはそう言うのを知らなかったし、そんなの関係ねぇ。オレたちの時代を作るとさえ思っていた。

お昼ごはんの時は仲の良いメンバー4・5人で机をくっつけて弁当を食べていた。元々持つ「人の空気」を敏感に察したわたしは自ら一人でいることを選んだ。「コイツラを巻き込みたくないし、いつか分かってくれる」とさえ思っていた。

人は往々にして多数派に流れる傾向がある。みんなと一緒思考によって、それまでわたしが居たレイヤーの人たちから相手にされない波紋は広がっていく。関われば今度は自分が的になるからだ。それでも地元の友達とはつながっていたので何となく自信はあった。とはいえ正直、「屋上から飛び降りたら楽になるのかなぁ」と考えたことはある。

結局、中立派の先輩が「おめーら、いつまでやってんだ!」と仲介に入ったと聞いている。その後、わたしは”持って生まれたアドバンテージ”によって、また人が集まる人へと返り咲いた。

しかしこの事変がわたしの心に深く刻まれてしまい、人の眼を気遣う、正確には「ご機嫌うかがい星人」へとヘタレた。それは例え商売人相手でも他人優先してしまい、いつも損をしている始末だ。

もう何十年も住み続けるこの土地。ふるさとといっても過言ではない地域。どうしても馴染めない。「もしあのまま、あの街で育ったなら・・」「僕を、あの生まれた街に返してよ・・」そんな想いを引きずっているのだろうか。そんなわたし自身も父と同じ思考なのかも知れないね。でもこの街は嫌いじゃない。そして私自身が被害妄想なのも理解している。けどガードする癖は年々抜けつつある。

ニートで自信を無くす

わたしは新卒で採用された会社を数ヶ月で辞めた。その日から一年半くらいニート生活が始まることになる。建設業見習いで働いた。けど月に数回しか行かなかった。なぜならつまらないから。

そして友達等と夜遊びを覚えオールナイトする様になり、仕事に行かない日が増えた。遊ぶお金を稼げばそれ以上、働く必要がないからでもある。

そんな中、同じ様に会社を転々とする友人達は次々と自立していった。そして当時付き合っていた彼女からも愛想を尽かされ私の前から去った。

「俺は無能な社会不適合者だ・・」自分を責めた。この時、すっごく自信を無くしたのだと思う。「明日こそ就職電話をかけてみよう!」と意気込むことを繰り返すだけの日々。「俺はもうこの無限ループから抜けられないんだ・・」と、お先真っ暗な人生を悲観した。

日増しに成長する友人等を見ると、どこか遠くへ行ってしまう切なさと、進歩が無い自分を比較して、わたしは社会のゴミだとさえ思い、昼間は隠れる様に生きていた19歳。この一年半くらいの経験も、社会不安を助長したのだと思う。

ただ友達は定期的にやって来てくれたし、電話もあってよく誘われた。ダメ人間なわたしを引っ張ってくれた友人には感謝しか無い。けど友達がお金が無いわたしに食事をおごってくれる行為がみじめ思え、誘いに出ない様にもなっていた。

その後、尻を叩かれる事態(借金取り)になり、わたしはやっと家から出て自立し、働く喜びと、お金を稼ぐ素晴らしさを経験し、いまに至っている。親が助けてくれなかったことが功を奏したのだ。自分で解決することに意味があるのは間違えない。

決定打はいまの会社

何とか普通になれていた。それは前職がトラック運転手(オフィシャルな場に出ない職業)だったから。逆に強気で生きていたとさえ思う。でも今の会社に勤める様になってから、集団生活の何チャラを知ることになる。「もう一匹狼的思考は通用しない」の幕開け。

集団行動において、「他人の心を掴んだもん勝ち」でもある。一人でも生きていける思考は通用しない。そうなるとその場所に順応すべく「今までの自分の思考を書き換える」必要に迫られた。それに耐えられない人達は次々と辞めてしまった。

そして元々わたしは働くことが大嫌いなニート出にも関わらず完璧主義者に変貌。仕事を一生懸命やる様になった。てか「仕事=真面目=評価」と自身を追い詰めていた。

そしてある日、脳が混乱してしまい、ついに会社に行けないかも的な精神状態になった。それでもわたしは医者に行かずに会社へ行った。なぜなら家族と家のローンや、これからどうなるのか?分からないからだ。この頃わたしは激ヤセした。

それから何年か生きた心地がしない日々を過ごした。それまで出来ていたことを恐れる様になった。拒否反応として目に見える形で顕著に体にも現れた。そして次々といままで出来ていた当たり前のことでさえ怖くなった。それでもそれを隠しながら生きている。とはいえ、だいぶ症状は改善されたかな。

自分をさらけ出せず、恥を恐れる

それから次々と恐怖体験(失敗の恐れ)をすることになり、より社会不安という負の経験を避ける様になり、余計に自分に自信が持てなくなり、新しいことの挑戦を避けるを繰り返してた。

笑い者になるくらなら、いっそ何もやらない方が良い・・」という選択をしがちになる。

結果、もうすぐアラフィフになろうとする今、人が普通に出来ることが出来ないでいる。正確には、うまく出来ないだけ。やってやれないことはない。失敗を恐れ逃げ続ける人生を送っている。「絶対に間違ってはイケナイ」の思考が行動を先送りにして自暴自棄にもなっている。

ネガティブとはポジティブではないか?と最近思った。「自分とは本来こういう人だ!と言うポジティブ思考がある。「それに成れない」と思うからこそ、やらない方がいいを選択してるからだ。つまり理想の人間像への執着が強すぎるのだ。これがことあるごとに逃げ腰になる理由でもある。

わたしは諦めが悪い人

そして当時、すがる想いでネットの記事を読み漁り、本を読むことを覚えた。するとそこに解決のヒントが書かれてある。それを実行に移した。すると良くなったり悪くなったりを繰り返した。

とはいえ逃げなかったリスクとして”それまで無かった症状”がプラスされ、今もケースバイケースで現れている。こうなった以上、自分の一部として付き合っていくしかない。

ただ1つメリットはあった。それは、それまでの自分と違う人に成れたこと。もしあのまま何も起きなかったとしたら今の自分は無い。間違ったマインド(悪がカッコいい)のまま、「なぜ物事がうまくいかないのだろう」と生きていたはず。まあそれはそれで幸せかもしれないね。知らぬが仏。

その副産物として父や母の生き方を歩まないですみそうだと感謝している。そのためには、出来なかったことを1つでも出来る様になるために、先ずは困難から逃げずにあえて立ち向うしかない

そんな訳でわたしは、何かと反応してしまうこの心臓と格闘しているのだ。「これは危機なことでは無いんだよ?」と自身の脳が理解するまで終わることは無いだろう。そんなわたしは何とか社会不安を克服すべく、そして認知の誤りを正すべく色々やるようにしている。チャンチャン

おわりに

わたしと同じ症状で苦しんでいる人も居ることでしょう。「辛かったら逃げないさい」いま流行りの言葉。それもまた人生ではありますが、でもあえてわたしは言いましょう。「それって嘘ですよ」。これが個人的な見解です。

結局自信を得るには、「やった、出来た」の経験値を増やすことでしか得られない。

逃げればいつか同じ壁に阻まれるだけ。そしてやり残しによって、人生の課題は大きくなっています。少しでもコンフォートゾーン(いまいる楽な場所)から出るしかない。

わたしは逃げようとしても、どうしても逃げられない運命にあるようです。なぜかと言うと、「わたしは苦しい」と、声を上げないから、助けてもらいえない。避けられないのです。

逃げるも勇気。立ち向かうも勇気。

もう成るようにしかならない。無責任ではありますが、出来る限り流されること(寛容・素直・受け入れる)様にしています。怖いけど。

◼PS

それと、もしわたしが「ドコの誰なのか?」知っている人は、もうしばらく黙って置いてくださいね。せめて子供達が自立するまでは・・・だったら書くなよ。(^_^;)

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