”ものを捨てる基準”って結局は損得勘定による判断だと思うのです。
自分にメリットがあれば残すし、メリットを感じなければもちろん必要性を感じません。
しかしながら人の気持ちとは本当に気ままなもの。将来どう思うかは誰にも予測困難です。
それでも捨てなくては新しい明日は来ないと思うのならここは1つ、思い切りが必要になってくるでしょう。
断捨離の基準は2度目以降にわかるもの
いきなり答を書きました。タイトル通り、一度目の断捨離では何を捨てればいいのか分かりません。でも、一度捨てると色々と見えるようになってきます。
つまり、
- 捨ててよかったもの(コト)
- 捨てなけりゃよかったもの(コト)
この2つを身をもって理解できるというはなしです。結局は”実際に行動に移さなくては分からない”ということなのです。
- 「いつか使うかも?」
- 「あとで価値が出るのでは?」
- 「実は必要だったりするのかも?」
もうこの考えが頭をめぐるときりがありません。
たしかに二度と手にできないものもあるでしょう。もしかしたら後悔するかも知れません。でもそれこそが断捨離の効果というものです。
「大事な人や幸せなときは”失ってみてはじめて気づくもの”」っていうじゃないですか。
当たり前と思っていたコトが当たり前でなくなるのは、幸せを再認識するキッカケにもなるのです。捨てるから手に入るコトはたくさんあったりします。
なので、ここは今後の自分のためになる投資と考え、悩んでいるのなら勇気を持って捨ててしまいましょう。なぜなら、その瞬間あなたは必要ないもの(コト)だと感じたからです。
「もう必要ではない」と思って捨てたものにこそ学びはある
断捨離をしようと思い立ったその時点では、無価値になったものや、じゃまなものほど悔やむことがあるものです。
「意外とあとで必要だった」あるいは「こんなことに使えたよね」と学んだりもします。
たとえば”子供が小さかった頃に使っていたもの”や、”時代遅れのブランドもの”などはもう必要ないものです。
実際「誰かにあげちゃおう」って考えてもその相手が本当に喜んでくれるのかが気になります。「実は迷惑なんじゃない?」って考えると捨てた方が楽ですからね。
でも面白いもので、「いま持っているものを大事にしない人は、やがて持っているものすら奪われる」とよくいいます。
もしお金がない人が「わたしは好きでこんなオンボロ車に乗っているんじゃないのよ!」って思って、車を大事にしなかったとしたら、やがて壊れてしまうのです。
買い直すお金もなく、仕方なくまたそのオンボロ車を乗らなくてはなりません。もし普段から大事にしていたのなら、直すところは少なかったはずです。
断捨離も同じです。
- 「こんなのまた買えばいい」
- 「やっと壊れてくれた。買い直せる」
- 「またもらえるから必要ない」
もしそんな気持ちでものを捨ててしまうのだとしたら、「いま持っているものを将来うばわれる」または「それすら手に入れることすら困難な状況になる」可能性は高と思うのです。
人間関係も同じです。
「また会えるから」とか「わたしに気があるから適当にあしらっても構わない」とか「オレは上司だ文句あっか!」など、他人に対していい加減な態度をしていると、やがて人は離れていくでしょう。
自分が「コレ必要だから残す」と自覚しているものよりも、本人がいらないと考えているコトの方が実は将来の後悔を秘めているってわたしは考えています。
断捨離の受け止め方は最初と後ではちがいがある
ものを思いっきり捨ててしまうと何かスッキリするのはよく分かります。
わたしは、使わなくなった子供の遊び道具や、持っていても使うことがない家財道具を思い切って街のゴミ処理場へ持ち込んだことがありました。
いるものといらないものを分別する作業をしていくうちに思いっきりがよくなて、どんぶり勘定的にサッサと終えたい気持ちになってきます。
考えるのに疲れてしまったというよりも「また買えばいいんじゃない」という気持ちです。
丁度年末でゴミ処理場はゴミを捨てに来た人でいっぱいでした。処理場は捨てるものによって場所が分かれています。
こどもが使わなくなったおもちゃを捨てようとしていると、「これ孫にあげたいなぁ、きっと喜ぶだろうなぁ」そばにいた係員のおじいさんが一言つぶやいたのです。
実際こどものおもちゃはまだ動きます。売れば売れた品物です。でも面倒だし、ほかにあげる人も見当たらないし、家にあっても実際場所をとってじゃまなだけでした。
ところが後になり「それ欲しかった」という人も現れ、ネットで売れるアプリも開発され、物置も造ったこともあり、何かさみしい感じになっています。
もったいなかった(お金になった)というよりも、まだ使えるものなのに大事にできなかった自分が心無く浅はかに思えてなりません。
おもちゃは子供たちとの大事な思い出です。もしほかの誰かが使っているって思えればこんな罪悪感はなかったことでしょう。努力が足りませんでした。
親に買ってもらったおもちゃもありました。なんて感謝の気持ちのないバカ息子なのでしょう。
もし自分がおじいさんになり孫へ買ってあげたおもちゃをあっさり捨てられたとしたら、怒りというよりもブルーになると思います。
子は親の背中をみて育つものだし、こどもを良くも悪くもするもの親だからです。
最初は断捨離してスッキリしていましたが、いまはものを大事にする試練の報いを受けているって思えるようにもなりましたよ。
「ものに想いが宿る」ってこのことなのでしょうか。
おわりに
こんな書き方をすると「断捨離はもったいないです」的にも思われても当然かも知れません。
わたしの断捨離のきっかけはネットの影響です。「いまあるものをリセットして新たな自分でスタートしてみよう」というのがはじまりではありました。
しかしながら結局、ものを置く場所がないから捨てざるを得なかったのも大量断捨離の理由でもありました。
そして、ものを整理する思考がほかの分野で活かされるようになり、それまでとはまったく正反対の自分になれたのは断捨離の成果だと思っています。
実際に捨てたからこそ分かったことだったと思うのです。3度目はもっと上手に捨てられる様な気がします。
▼何かを得るためには何かを捨てることです。
リンク人間関係を断捨離するために選ぶべき3つのこと
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