親が返答に困るような質問を、子供が聞いてくることってありませんか?
そのとき「親として」どう答えればいいのでしょう。
- 世間の基準を重視するのか
- 子供にとっての利益を考えるのか
- 親の都合でものを言うのか
大人だって、本当は何がよくて、何がよくないのか分からないものです。
今回は、散歩の途中で息子から質問された体験を考えてみました。
■「親の役目」って何のでしょうね。
いつも通っているはずの道は「知らない」がいっぱい
先日、小学校低学年の息子と近所をさんぽして回りました。そこは、いつも車で通り慣れた道のはずですが、走るのと歩くのでは別物ですね?意外と新鮮な気持ちになりましたよ。
知らないから知りたい
その道は子供にとっては通り慣れた通学路です。ふだん疑問に思っていたことを私に質問してきます。近所にある竹やぶに対しての「どうなの?」を聞いてきたのです。
- ここにある竹を取ってもいいの?
- 竹やぶに、のぼってもいいの?(道路から一段高い場所)
「なぜ、こんな簡単な行動を自分で決められないのだろうか」と私は思ってしまいます。
私が子供のころは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、他人の庭や敷地に入っていました。しかし、息子はためらって、どうしていいのか分からない様子です。
「いいのか」「よくないのか」は人が決めているだけ?
自然界の生物たちには、
「ここは鈴木さんの家ですよ? 」と言う考えはありません。
「ここから先は誰さんの庭です」県境や国境などを、知るよしもなく生きています。
なぜ、そう考えてしまうのでしょうね。それは、人が勝手につくりだしたからです。
では、なぜ?息子は竹やぶに入ることをためらったり、遊ぶために竹を取ることを聞いていたのでしょうか。
それは息子が経験として、
「これはいけないことなのでは?」 と感じ取った結果、
「怒られるかも」と思ったからです。つまり、私自身、親が、困らせてしまったのだ、と思いました。
私が息子と同じ年のころはヤンチャな悪ガキでした。
「人の物」と言うことよりも、
「これは楽しい遊び」と感じる欲求に素直でした。だから、怒られることもよくありましたよ。その場は反省したふりをして、心ではあっかんべー。そのスリルを楽しんでいたくらいでした。
自分の考えと世間の考え
もし私がこの子の親の立場ではなく、息子の友達だったとしたら、答えは決まっています。
「竹やぶを探検しに行こう! 」
「帰りに竹を持ち帰って遊ぼうよ 。竹で何か作れるかもしれないね」と、竹やぶに入って行ったことでしょう。
「もし誰かに見つかったらダッシュで逃げようか? 」と作戦会議を開き、盛り上がります。
しかし私は親になりました。はてさて?私は何と答えればいいのでしょうか。
色々考えましたが、
「そこは誰かの庭だから入ってはいけないよ」
「高くて危険だから登ってはいけないよ」
「人のものだよ」「あぶないからね」を理由に、こどもにリスクを与えなかったのです。まったく私は、つまらない大人になってしまったものです。結局こどもにとって、期待はずれの言葉しか言えませんでしたよ。
人がつくったルールは絶対とは言えない?
Q:1 あなたが乗ったバスの運転手が突然気を失った
「誰かバスを止めてー!」
「私は車は乗れますが、バスの運転資格はありません」と言って、バスを止めなかったとしたらどうなるのでしょう。何もしなければ、いずれどこかにぶつかるのは目に見えています。
もし、あなたがとっさにハンドルをにぎってブレーキをかけたとしても、きっと誰もとがめないでしょう。そして助けた後に、無免許運転で逮捕されるのでしょうか。
たとえバスを止めることに失敗したとしても、その勇気ある行動は評価に値すると私は思います。
Q:2 あなたは最果ての地や無人島で、生死をさまよう状態に直面した
「急患です!誰か助けてください!」
「はい、わたし治せます!ただし、現在、医師免許を持っていませんけど」
医者を引退したおじいさんがいたとしたら、どう判断すればいいのでしょう。
「資格を持っていない医者の治療は受けられない」と、遠い彼方から時間をかけてやってくる助けを待つのでしょうか?
これはちょっとむずかしい判断になりますが、その人が「治せる」と言うのなら、
「イチかバチかにかけてみよう」と私は考えます。
「ルールは絶対に守ること」と子供に教え込んでいたとしたら、どうなってしまうのか
2つの話の状況に立たされたとき、
「出来るのに知らん振り」をする人間を育てることになります。でも、「知らん振り」が時には「いい判断」と言う場合もあるし、これは本当に考えさせられるテーマです。
100パーセント「絶対にダメ」と線を引くのではなく、ケースバイケースでその状況にあった判断ができるような子育てが、これからは必要なのではないか?と、ちょっとだけ考えさせられましたよ。
こどもの内心を考えてみる
「きっと父親とさんぽすれば、いつもとは違うことが出来るかも知れない」と言う期待があったのかも知れません。
- 自販機の前を通ればジュースが飲めるかも
- 川の近くを歩けば川の水にさわれるかも
- いつもより遠くまで連れて行ってくれるかも
そう思って散歩につき合ってくれたのかも知れませんよね?
行動をふりかえってみた
「取り返しのつかない危険な遊びはダメですが、多少のことならいいのではないか」
「息子と一緒にしかられてみる勇気が必要だったのではないか?」とふりかえっています。
もちろん他人様の物を勝手に持ち去るのは良くないことですし、子供に教えてはいけません。でも、竹を一本ノコギリで切り落とす訳ではなく、「竹の枝」一つくらいは許してもらえるのではないか?と思いましたよ。
ちなみに、法律的にはどうなっているのでしょうか
「隣の家の木の枝を勝手に折る」場合の法律を紹介します。
民法第233条の規定では、
「隣地の木の枝が、境界線を超えるときは、その所有者に、その木の枝を切り取らせることができる」
リンクWIKIBOOKS 参照元
木の枝は、お隣さんの所有物ですから、所有権の侵害になるそうです。
「人のだからダメ」と言ったり、
黙って竹を取るのではなく、
「竹の枝をもらってもいいですか?」
「一声かけてみる」のも、モラルとマナーとコミュニケーション力をつける教育になりますから、今度は試してみようと思いました。
おわりに
正に、「こどもは親の先生」です。
今回も息子に育てられ、また一つ大人になったような気がします。
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