「正解は?」こどもの質問にどう答えるべきか。親としてどうあるべきなのか

この記事は約6分で読めます。

 

親が返答に困るような質問を、子供が聞いてくることってありませんか?

そのとき「親として」どう答えればいいのでしょう。

 

  • 世間の基準を重視するのか
  • 子供にとっての利益を考えるのか
  • 親の都合でものを言うのか

 

大人だって、本当は何がよくて、何がよくないのか分からないものです。

今回は、散歩の途中で息子から質問された体験を考えてみました。

 

 

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いつも通っているはずの道は「知らない」がいっぱい

先日、小学校低学年の息子と近所をさんぽして回りました。そこは、いつも車で通り慣れた道のはずですが、走るのと歩くのでは別物ですね?意外と新鮮な気持ちになりましたよ。

知らないから知りたい

その道は子供にとっては通り慣れた通学路です。ふだん疑問に思っていたことを私に質問してきます。近所にある竹やぶに対しての「どうなの?」を聞いてきたのです。

 

  1. ここにある竹を取ってもいいの?
  2. 竹やぶに、のぼってもいいの?(道路から一段高い場所)

 

「なぜ、こんな簡単な行動を自分で決められないのだろうか」と私は思ってしまいます。

私が子供のころは何の躊躇(ちゅうちょ)もなく、他人の庭や敷地に入っていました。しかし、息子はためらって、どうしていいのか分からない様子です。

 

「いいのか」「よくないのか」は人が決めているだけ?

自然界の生物たちには、

「ここは鈴木さんの家ですよ? 」と言う考えはありません。

「ここから先は誰さんの庭です」県境や国境などを、知るよしもなく生きています。

なぜ、そう考えてしまうのでしょうね。それは、人が勝手につくりだしたからです。

 

では、なぜ?息子は竹やぶに入ることをためらったり、遊ぶために竹を取ることを聞いていたのでしょうか。

 

それは息子が経験として、

「これはいけないことなのでは?」 と感じ取った結果、

「怒られるかも」と思ったからです。つまり、私自身、親が、困らせてしまったのだ、と思いました。

 

私が息子と同じ年のころはヤンチャな悪ガキでした。

「人の物」と言うことよりも、

「これは楽しい遊び」と感じる欲求に素直でした。だから、怒られることもよくありましたよ。その場は反省したふりをして、心ではあっかんべー。そのスリルを楽しんでいたくらいでした。

 

自分の考えと世間の考え

もし私がこの子の親の立場ではなく、息子の友達だったとしたら、答えは決まっています。

「竹やぶを探検しに行こう! 」

「帰りに竹を持ち帰って遊ぼうよ 。竹で何か作れるかもしれないね」と、竹やぶに入って行ったことでしょう。

「もし誰かに見つかったらダッシュで逃げようか? 」と作戦会議を開き、盛り上がります。

 

しかし私は親になりました。はてさて?私は何と答えればいいのでしょうか。

色々考えましたが、

 

「そこは誰かの庭だから入ってはいけないよ」

「高くて危険だから登ってはいけないよ」

 

「人のものだよ」「あぶないからね」を理由に、こどもにリスクを与えなかったのです。まったく私は、つまらない大人になってしまったものです。結局こどもにとって、期待はずれの言葉しか言えませんでしたよ。

 

人がつくったルールは絶対とは言えない?

 

Q:1 あなたが乗ったバスの運転手が突然気を失った

「誰かバスを止めてー!」

「私は車は乗れますが、バスの運転資格はありません」と言って、バスを止めなかったとしたらどうなるのでしょう。何もしなければ、いずれどこかにぶつかるのは目に見えています。

 

もし、あなたがとっさにハンドルをにぎってブレーキをかけたとしても、きっと誰もとがめないでしょう。そして助けた後に、無免許運転で逮捕されるのでしょうか。

たとえバスを止めることに失敗したとしても、その勇気ある行動は評価に値すると私は思います。

 

Q:2 あなたは最果ての地や無人島で、生死をさまよう状態に直面した

「急患です!誰か助けてください!」

「はい、わたし治せます!ただし、現在、医師免許を持っていませんけど」

医者を引退したおじいさんがいたとしたら、どう判断すればいいのでしょう。

「資格を持っていない医者の治療は受けられない」と、遠い彼方から時間をかけてやってくる助けを待つのでしょうか?

これはちょっとむずかしい判断になりますが、その人が「治せる」と言うのなら、

「イチかバチかにかけてみよう」と私は考えます。

 

「ルールは絶対に守ること」と子供に教え込んでいたとしたら、どうなってしまうのか

2つの話の状況に立たされたとき、

「出来るのに知らん振り」をする人間を育てることになります。でも、「知らん振り」が時には「いい判断」と言う場合もあるし、これは本当に考えさせられるテーマです。

 

100パーセント「絶対にダメ」と線を引くのではなく、ケースバイケースでその状況にあった判断ができるような子育てが、これからは必要なのではないか?と、ちょっとだけ考えさせられましたよ。

 

こどもの内心を考えてみる

「きっと父親とさんぽすれば、いつもとは違うことが出来るかも知れない」と言う期待があったのかも知れません。

 

  • 自販機の前を通ればジュースが飲めるかも
  • 川の近くを歩けば川の水にさわれるかも
  • いつもより遠くまで連れて行ってくれるかも

 

そう思って散歩につき合ってくれたのかも知れませんよね?

 

行動をふりかえってみた

「取り返しのつかない危険な遊びはダメですが、多少のことならいいのではないか」

「息子と一緒にしかられてみる勇気が必要だったのではないか?」とふりかえっています。

 

もちろん他人様の物を勝手に持ち去るのは良くないことですし、子供に教えてはいけません。でも、竹を一本ノコギリで切り落とす訳ではなく、「竹の枝」一つくらいは許してもらえるのではないか?と思いましたよ。

 

ちなみに、法律的にはどうなっているのでしょうか

「隣の家の木の枝を勝手に折る」場合の法律を紹介します。

 

民法第233条の規定では、

「隣地の木の枝が、境界線を超えるときは、その所有者に、その木の枝を切り取らせることができる」

リンクWIKIBOOKS 参照元

 

木の枝は、お隣さんの所有物ですから、所有権の侵害になるそうです。

 

「人のだからダメ」と言ったり、

黙って竹を取るのではなく、

「竹の枝をもらってもいいですか?」

「一声かけてみる」のも、モラルとマナーとコミュニケーション力をつける教育になりますから、今度は試してみようと思いました。

 

おわりに

正に、「こどもは親の先生」です。

今回も息子に育てられ、また一つ大人になったような気がします。

 

エッセイ
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