その「おすそ分け」は迷惑?誰も欲しがらないことから人生を学ぶ

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もしあなたが誰かに「何か」をあげようとしてるのに、

「ソレいらねぇよ」って拒否られたら最悪な気分になりますよね。何でそうなるのでしょうか。

そこから学び、次に活かせたらストレスも減りそうな気がします。

 

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贈り物とは贈る人の分身。「受け取ってもらおう」ともがくのはイタいだけ。でもその気持、わかる

先日、会社の同僚が「家でとれた大量の野菜」を会社に持ってきました。きゅうりやナスとかは次々になりだすから食べきれないのが現状です。

 

せっかく育てた野菜達。捨てるのはもったいないし、誰かが食べてくれたら嬉しいものですからね。わたし自身、家庭菜園をやる人なので、その気持よーくわかります。

 

ところがそんな贈り手の気持ちなどお構い無し。誰もその野菜を持ち帰ろうとはしません。なぜなら誰も欲しと思わないから。

 

持ち帰えるメリットがそこにないだけ。逆にデメリットにもなっている。それぞれの理由は以下の通り。

 

  1. Aさん「徒歩通勤。きゅうりのほとんどは水分、重く、がさばる」
  2. Bさん「家庭菜園をやっている。同じくあまっている。妻に怒られる」
  3. Cさん「そんなの買えばいい。お返しとか面倒だ。借りを作りたくない」

 

持ってきた本人としては当然、気になってしかたない。なぜなら、せっかくの自分の気持が踏みにじられようとしているからだ。自分が無視されている様なもの。

 

同時に、自分という人間の価値が問われている状態でもある。案の定、しびれを切らした同僚はわたしの所にスタスタとやって来てきて、わたしに頼んできたのです。

 

ほんと、この野菜を持ってきた人の気持ち、イタイほどわかります。捨てる罪悪感の解消の「はけ口」として誰かを利用する気持ちのこと。

 

「もう必要ないけど捨てるのは忍びない。もし誰かが使ってくれたら嬉しい」ことってありますよね。

 

自分の通ってきた道のりを誰かが受け継いでくれるのは、人とのつながりが共感を刺激するからです。

 

以前わたしは、この同僚と同じことをやったことがあります。結果は同じくノーサンキュー。学習して、いまはもうやめました。

 

プレゼントの主役は常に「もらう相手」にある。自分の気持など二の次、三の次

「家で作った野菜が美味しいから是非あなたにも別けたい」なのか?わたしの場合は少しちがってた。「俺、いま家庭菜園やっている」という自分の今を知ってほしかったんだと思う。

 

最近わたしは家族のお土産に「ちょっと高価な大きめサイズのヨーグルト」を買ってきました。実際いまだに誰も手を付けてくれないでいる。

 

自分としては早く食べて欲しい。でも家族としては困っている様子。デザートでもなく食事でもないからだ。

 

「ねぇ。早く食べないと賞味期限が切れちゃうよ?」と言ったり、冷蔵庫を何度も開けて残っているヨーグルトを見てしまう。何ともいえない気持ちです。

 

これは完全に「自分発信」の状態。独りよがりな行動。なぜなら家族のニーズに合わないから。時間がなく、たまたま目の前にあったから買ってきただけだからです。

 

同僚の野菜の話もふくめ考えてみると、

 

これらを心から喜んでくれるのは、本当に食うに困っている人か、自分の親など、無償の愛を持つ人だけ。

 

話の主役が「もらってくれる相手の気持ち」ではなく、「プレゼントを渡す自分の気持ち」になっている。

 

贈り手としては、もしかしたら、今年の野菜は値段が高いし、安月給を知っている親が息子に持たせたのかも知れない。

 

「クレてやれ」ではなく「もらって頂く」のスタンスが大事。

 

同僚としても、家計の助けになれば感謝される。喜ばれると嬉しい。一石二鳥にもなりますからね。でもこれが「相互利益になるのか」ということ。

 

「頼むから持ち帰るのだけは勘弁してよね。親に、なんて報告すればいの?俺の気持ちを大事にしてよ」にも見えてしまう。つまり、お互いのニーズが合わなかったということ。

 

それでも持ち帰らないのは、その人がいままで、「相手にしてきた・してこなかった」答えでもある。恨んではいけない。そういう人がいる環境にいるのは自分が選択した結果でもある。

 

なので、頼んでない相手に何かをあげるのは、たとえどんな相手でも、

 

渡し手が弱く

受け手が王様

 

な構図が基準になる。なぜなら、人の選択は自由だし、相手が望んでない好意をあなたが勝手にするからだ。

 

人は「自分のは最高」って思っても相手のは下に見る傾向がある

今回、野菜を持ってきた同僚にわたしから贈るメッセージがあるとすれば、

 

「この出来事は『思いやりを学ぶステージ』だったんじゃない?」ということ。

 

この同僚は以前、仕事の順番をめぐって次の様な発言をしていた。

 

「今日、こっちは暇だから相手に先を譲って貸しを作っておく。したら、忙しいときに借りを返してもらえるから」と言う打算。したたかな一面もある。

 

自分が調べた情報を、さも「価値がある」かの様に教えるけど、本人が同じことをされると「鼻で笑う」様なコメントを聴くこともあった。

 

けど人はそんなドライな人ばかりじゃないし、口に出した言葉はインプットされ関連付けされてしまう。

 

人は、その人が「何でそれをくれるのか」を考えるもの。読まれたらそれで終わり。戦法を敵に知られては戦は勝てはしない。

 

野菜を断った人の中に、とても残念な人もいたけど・・

この断った人は、以前、同じことをして周囲を困らせていた。

 

自分が育てた野菜達をどうにかしてもらって欲いと考えて、渡す相手の都合を無理くり合わさせ、野菜をあげていたことがりました。

 

つまり「自分は食えないけど、捨てるのは忍びない。誰かにあげて恩を着せてやろう」と考えたからだとしか思えない。

 

なぜなら時期外れの野菜で美味しくないからだ。そこに心があるのなら、まだ貴重で価値がある旬のころにあげるものだからです。

 

その人はわたしの家にまでやって来たけど、わたし自身、家庭菜園を始めたころで、仲間がいることが嬉しかった。

 

その気持よく分かるし、我が家は遠い。大変だから会社帰りに自ら野菜を取りに寄り道したこともありました。それなのに、なぜこの同僚の気持ちがわからないのか?

 

ひょとしたら、過去のイタい自分に気づいて、あえて「野菜を持ってこない方がいい」ことを態度で示したとも考えられます。

 

「与えられたモノは受け入れる」のルールに乗っかる

そこで、ある人がわたしに言った「もらってやれなぁ・・」の言葉を思い出してしまいます。

 

それは以前わたしが自分が望まないおせっかいを完全に突っぱねる性格だったからです。いま社会でなんとかやっているのは、このルールを受け入れているからです。

 

つまり、「自分は全然いらない物やコトや好意でも、それを受け入れてあげる」というルールに乗っかるってこと。

 

「もらう側の気持ちは、ひとまず置いといて、あげる側の気持ちを立ててあげる」の意味。

 

テレビドラマでよくあるシーンがこれ。

 

娘が父親のために作った料理。実際、味が薄い。でも美味しいふりをる。その料理が上手い下手とかは問題ではなく、父親としては娘の気持ちが大事なのだ。

 

時には、役者になるのも人間関係を円滑にするコツで、必要なスキルだということなんです。

 

失敗は次に生かして自分の成長につなげる

今回野菜を持ってきた同僚は、いつも何かを持ってきて振る舞うことがある人間です。

 

きっと気分がよくなるからなのでしょう。チームに貢献するのはイイことだし、中々出来ることじゃないし、素晴らしいことだと思う。

 

でも、人は「誰かに何かしてもらうと、何かを返さないといけない気持ち」になってしまうもの。それは返報性の原理が働くからです。

 

これは、相手に「申し訳ないな」の感情をいだかせてしまうことにもなっている。自分に有利な立場を創り出している状態ともいえる。

 

そして与える本人は、誰かを犠牲に「徳を積む」状態でもある。(イイことをするとイイことが返ってくる原則のこと)

 

イイことをしているつもりが実は「良くないことに」なっている。自分が得をするために相手の気持ちに負担をかけてはいけないのだ。

 

おわりに

「これをするコトによって相手はどう思うのか」の問いかけは絶対に必要だと、今回の件を経験をとおして振り返ることができました。

 

「おもてなし」とは「相手を知る」という絶対法則です。

 

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