分かり合えない自己中者にどれだけ媚びても時間の無駄だという件

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独りで進め

世の中にはどうしても理解し合えない性格の持ち主はいるものです。

 

仕方ないんですよ。人は生まれ育った環境と、通ってきた道のりがちがうのからね。それは猫も一緒です。

 

だからといって人に迷惑をかけていい理由にはなりません。しっかりと自分の心を守るべきなのです。

 

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相手の気に入る人間に成り下がっても得るものはない

  • 自分の意見が通らないとブチキレる
  • 自分の考えとちがう行動をとるとイヤミをいう
  • 自分に得がない状況になりそうになるとコロッと意見を変える
  • 自分が苦労するハメになると被害者として同情をかおうとする
  • 言わなくても自分が望む行動をしてくれるものだと思い込んでいる

面倒な自己中者はどこにでもいるものです。

 

このような人は放おって置くのが一番の対策なのですが、仕事上のつき合いだとそうもいかないのが大人の事情です。

 

耐えきれなく最初は反発したことでしょう。筋が通らないワガママが全部通るほど世の中そう甘くはありません。

 

でも利害構図にある関係だとしたら、もめるのは是非とも避けたいところです。秩序を乱しているのはその相手だとしても、ケンカしているのには変わりはないですからね。

 

逆に”コミュニケーション能力が低い人材”だと思われてしまっては何かとよろしくないこともあったりします。

 

たとえばもしこれから出世して部下たちをまとめる立場を狙っている人だとしたら、統率力にかける人だと上司に見られることもあるでしょう。

 

わたし自身も「ひょっとしたら出世するかも知れない」と計算が働いてしまった昔、選挙のときだけ優しくなる政治家的な対応をした過去がありました。

 

”言うことを素直にきいてもらいたい”という下心があったからです。

 

そうなると、仕方なく自己中者に甘い対応をしたり、理不尽なワガママを通してあげたりすることもあることでしょう。

 

でも、常に物事の判断基準が”自分の利益”の人に寛大になってもあなたが傷つくだけで、何も得るものはありません。身につくとしたら、自己中者に対しての免疫だけ。

 

そしてその甘やかしは他に伝染していき、集団の調和を乱してしまうのです。

 

その免疫が身につくために、どれだけ傷つけばいいのでしょうか。もしかしたら、他の人に対しても同じように疑心暗鬼になり人間嫌いになることもあるのです。

 

わたし自身、この様な人間と長く関わっていると、自分の性格がひねくれてしまった様に感じてなりません。

 

汚れです。この様な記事をいまこうして書いているくらいですからね。もうこんなのはごめんなので、距離を置く道をいまは選んでいます。

 

”自己中者の対策として誰かが最初にやりだしたこと”とはいえ、その人のせいにはできません。

 

基準の無い思いつきにいちいち反応しても前には進まない

一度大きく甘やかすとワガママは加速します。

 

他人が自分の思い通りに動くようになると”要求はエスカレート”。収集がつかないことへと向かってしまいます。

 

「仕事をそつなく進めるための要求」とは”協力”であって”個人的なお願い”ではありません。

 

「仕方ないからきいてやる」とその相手が思うのは、その人の勝手な思い違いなだけ。あなたに問題は無いのです。

 

その場そのときの感情でちがうことを言ってきたり、昨日とはちがう意見であなたを困られたりするもでしょう。

 

そんな人の話しをいちいち真剣に聞き入れても仕事は前には進みません。

 

しかしながら、ズルイ人にかぎって口が達者な場合がほとんど。ほんと敵いません。

 

▼そんなときは自身に考えさせる時間を与えるのも一つの手です。
リンク職場のモラハラ年配者から言葉の暴力に困惑した自分が今出来ること

 

押してもダメなら引いてみるのです。

 

そもそもなぜ「ひねくれ者」なのかを推測してみる

やはり”ひねくれ者”とは、自分の想い描く理想ではない状況に対する抵抗だと思うのです。

 

「本当の自分はこんなんじゃない!」という強い自負が、周囲の人に八つ当たりをするのでしょう。

 

自分が欲しいものが手に入らないことが分かったり、みんなが持っているものを自分だけが持てなかったりすると疎外感。ヤケになります。

 

わたしの職場にいる偏屈(へんくつ)じいさんは、みんなが持つ資格を持っていません。言いかえれば自分だけ仲間はずれです。

 

本人も”いくら文句をつけても仕事ができなくては話にならない”のは承知のこと。自分でも認めていました。

 

そんな自分の劣等感に折り合いをつけるように他人の仕事の仕方にケチ(評論)をつける人へと進化したのでしょう。

 

「ソレがなくてもコレがある」自分を肯定するものとして、自身の前職の経験を武器に戦いを挑んできます。

 

悲しいかなしかし、勝負になりません。

 

たとえるなら徒歩でエベレストを目指す登山家に対抗者がヘリコプターを使って勝ったとしても、相手を負かしたことにはならならないようなもの。

 

年の功だけでは業務はこなせない。この場所の人を動かすには「この場所の仕事」ができなくては話しにはならないのです。

 

自分が「欲しい」と思うものを持てなかったのは他なぬ本人の責任です。

 

仕方ないんです。人生の終末期に自ら前の会社を辞めてしまったのですから。

 

いくら年上の年配者だとしても、後から入った後輩に心底ひれ伏すことなどあり得ないのです。

 

可哀想という優しさがかえって感情を逆なでするくらいなら、いっそのこと相手にしない道もありだと思います。

 

まとめ

たしかに「自己中で問題を起こす人」と関わることで、自分の心の器を広げることもあるでしょう。

 

実際わたし自身も以前よりも「困った人」に対しての免疫もつきましたし、くだらないことをスルーできるようにもなっています。

 

しかしながら、それが毎日では精神が持ちません。

 

どうしても離れられない関係図になっているのだとしたら、ここは1つ自分を守る道へと方向転換すべきだと思うのです。

 

外へと表現しないでいると「問題がある」とは思われないからです。黙っていては気づいてもらえませんよ?

 

▼暴言を吐く人に対して、どう関わっていくのか。
リンク暴言を吐く人を罪に問う前に自分達がやった4つの対処

 

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