子供の頃から甘やかして育ててしまったのに途中からきちんとした教育をしようって思っても、ためらってしまいます。
「怒るとシコリが残るし、言うことをきかなくなる」って考えると、子供をしかれなくなってしまいますよね。
「叱らないで育てる」なんていう教育法もあるそうです。できれば不仲になる様な行動は避けたものです。
でも立派な教育者みたいに上手な接し方もよく分かりません。いい大人になった自分を今更変えるのは難しいものですよね。
かと言って、放って置いては教育にはよろしくないのも分かります。こどもの将来も心配です。
そもそも、なぜあなたは「その一歩」を踏み出せないのでしょうか。
「将来、自分の面倒をみてもらうから」という想いを捨てる
「お世話になる人だから」の考えを持った行動は、やってあげたことに対しての見返りです。それは「想い」ではなく計算です。
算段は教育ではなくビジネスです。自分が得をしたいという間違った想いだと思いませんか?
本当の親心とは無償の愛。
「見返りを求めない自己犠牲のことだ」ってわたしは思うのです。
必要なのは、子供に嫌われる勇気と、その子供に嫌われた結果、将来子供から受けられるであろう恩恵がなくなってしまうかも知れない覚悟をする行為ではないでしょうか。
「こどもがいい方向へ行けるのなら、例えこどもとの関係が崩れてしまっても仕方ない」気持ちになるしかないのです。
ほんと綺麗事、何かうさんくさい記事に見えてしまうところでしょう。
「雷親父でいい」という自分の考え方に違和感が
「ほんじゃ、あんたは自分の子供から『嫌われてもいい』言動や行動を実際にやれてるの?」って聞かれても、わたしの答えはNO!です。
「え~?ウソつき」って思うことでしょうが少し聞いてくださいよ。
「叱り方」について、以前わたしは妻から言われたことがあったんです。内容的にはこんな感じ、
「自分の都合やそのときの気分や言い方が、教育じゃない」そんな指摘を受けた経緯です。
「あなた(筆者)のことばは感情的で子供を怖がらせているだけで的外れだ!」って感じに。わたし的にはおどしているつもりは無いんですけどね・・
大人の強みを出したのでしょう。その場を瞬時に収めるられる。手っ取り早いし楽だからです。単細胞がやりがちなのも認めます。
でも人って何かするときって、まず何かを参考にするものですよね。
親の影響はある?
亭主関白(父親絶対家庭)の家で育ったわたしの思考は、「強い父が教育にイイ」ってどうやらインプットされているようです。
でも、歳をかさね経験もふえて色々なタイプの人と交流し、時代の変化や本やネットの情報を見ていくうちに考え方も変わりました。「こうあるベキ」という(思い込みからの雪解け)
そんな知識を知らなくても、叱った後のこどもの行動を見れば、「あぁ、わたしの考えはまちがっていたんだなぁ・・」ってかみしめるようになったのです。
だったら妻におまかせします
そんなわたしとは言わば昭和の天然記念物。「教育については妻に任せよう」という気持ちと同時に、
「俺はもう知らない」わたしのやり方が通用しないのなら勝手にやれば?的で投げやりになっていたのも一理ありました。
そうなったのは、その何か(参考にする対象・知識)が分からないくなってしまったからでもありました。わたしの家系に問題があるのでは?という疑問です。
一方、「勝手にすれば?」って思ったのは、過去の失敗を反面教師にできたから。
少しでもまともに近づけたのは、やはり親の教育があったからだってシミジミ思うからなんですよ。
生き方を教えるのは学校じゃない。家庭の役目?
でもやっぱり我が子です。放おっては置けない気持ちはおさえられないもの。
「やっぱりそれは良くないんじゃないの?」という思いにフタをすることが出来ません。
最低限の教育って何なのか
■あいさつは大事です。
- 「いただきます。ごちそう様でした」
- 「おはよー。おやすみ」
- 「いってきます。ただいまー」
- 「ありがとう。どういたしまして」
■行動も大事です。
- 食事の準備や後片付けを手伝う
- 脱いだ服をハンガーにかける
- 食べ終えたお弁当箱は洗い場に出す
「ごはんを作れ」とか「洗濯や洗い物をしろ」といっているのでありません。これは人としての基本です。結局は本人のためになることだからです。
誰かが何かをしているときに、
「自分にも何かやれるコトはないかな?」の自分への問です。
子供にはそんな大人になって欲しい。
自分のことを自分で出来ない人は不幸になる?
これらはいった誰のためなのでしょうか。
上げ膳据え膳(本人が何もしなくても誰かがやってくれる行為)で育ててしまっては、自分じゃ何も出来ない人になってしまうからです。
王子様王女様でいられるのは家にいるときだけ。一体いつまでお嬢様でいられるのでしょうか。
本来、苦労ではないことでさえ苦労と思ってしまうと、結局はこども自身が大変な思いをしてしまうのです。
自分の身の回りのことをするのは当たり前のこと。その当たり前が出来ない人は将来必ず誰かに迷惑をかけるでしょう。人の手助けがないと生きられないから。
誰だって嫌な人には近づきたくはありません。人が離れてしまう人間が本当に幸せになれるのでしょうか。
小さな躾(しつけ)は大事です。本人のためになるって大人なら誰だってわかりますよね?それを教えるのは親の役目なのです。
自分の我が子の将来を本当に心配しているのなら、自分の将来はさて置き、こどものために勇気を持って発言するしかないのです。
おわりに
親の都合ではなく、本当に本人のためになる指導だったのなら、いずれ分かってもらえます。わたし自身が親になり、身をもって理解したからです。
確かに人は厳しいことを言う人を嫌うのは否めませんし、心を閉ざしてしまう時期もあるだろうし、一生、分かり合えない場合だってもあるでしょう。
でも、本人が良くなるのならそれでイイのです。
甘やかした結果、本人が浮いていて、嫌われている姿を見て可哀想だと思うのなら、ここはやはり物事の分別を教えるしかないでしょう。
別に世の中の道理など知らなくてもいまの時代何とでも生きられます。しかしながら人は本来、他人とつながりたい願望を持っているものです。
1人さみしく生きるよりも、どうせならたくさんの仲間に囲まれて過ごして欲しいものですよね。
▼「やらなかったこと」ほど後悔することはありません。
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