ある意味、いままでの自分のスタイルをつらぬくことよりも、変える方がむずかしいもの。
とくに、真面目な人、お人好し、優しい心の持ち主は、自分を変えることに抵抗感をもってしまうでしょう。
もしかしたら、もう一歩で成功できるエリアまで近づいているかも知れないからです。
でもそんなコトをやっていてはいつまでも人に利用されるばかり。いつになったら自分らしく生きられるのでしょう。
状況を変えるには期待を裏切ることも時には必要
あなたは「いまある状況を変えよう」と考え、ちがう自分を演じています。
「他人から(いい人)と思われよう」とか、
「得になる対応とはコレだ」など、ちょっと不本意だけど我慢を続けることです。
残念ですが、その企みは相手に見抜かれています。
あなたの下手な態度は利用されるだけ。相手をお客様気分にさせるだけ。いつまでたってもイタチごっこ。終わらない戦いになるだけです。
本当に相手を動揺させる方法とは、自分の得を犠牲にして見せる行動のこと。なぜならその相手達は予想していないからです。
と同時に、相手の思惑をうばうこと、相手の呪縛から開放される効果にもつながります。
なぜなら、あなたが大事にしていることを手放すのは、自分の秘密を暴露してしまうことと同じだからです。
必ず手応えはあるはずです。
相手を一時停止に追い込めるのは、あなたが何を考えているのか分からないから。どう対処したらいいのか判断できないからです。
たまには予想外の行動をして、いままであなたが大事だと思っていたコトを守るのをやめてみるのです。
きっと相手は、不意を突かれたように戸惑います。あなたに対しての(いままでの対応や考え方)を見直す機会になるでしょう。勇気を持ってやってみるのです。
▼人の弱みを利用する人から離れましょう。
リンク結局、損してる気がするのは相手の作戦にハマっているからという話
意地をはるのをやめることの効果は「さとり」
もしかしたら、自分が描いた人間像をやめられないのは意地があるから、ではないでしょうか。
「いい加減な人」を目指すと気持ちがグッと楽になれます。ここでいう「いい加減」とは、ちょうどいい湯加減や味加減のこと。
いままでの行動を変えるのは勇気が必要です。
「嘘つきだ」とか「根性がない人」とか「変わり身の速いやつだ」とか思うのは「信用に関わる」って考えてしまうからですよね?
その気持、わたしにもよーく分かります。
決めたことを途中で変えるのは「意志が弱く、誠実な人でなくなってしまう」と恐れるからですよね?
でも本当に、意地を続けることが得策なのでしょうか。
あの、ブッダになったお釈迦様ですら「あきらめた」
お釈迦様が悟りを開いたのは意地を捨てたからです。
お釈迦様の最初の修行は「食べ物を我慢すること」です。
ところが、見かねた娘さんが食事をススメます。悩んだあげく、お釈迦様は食事を受け入れました。いったいなぜなのでしょうね。
煩悩(人の欲望)の1つである食欲を断つために断食(だんじき)をしている、ということとは、
断食への強いこだわりが「執着」になっている、
続けたいという「欲」になっている、と悟ったからです。
娘が差し出したミルク粥(おかゆ)を食べると、断食へのこだわりがスッと消えて、穏やかな心境になったといいます。
「初転法輪(しょてんぼうりん)」これが最初の説法の内訳です。
ちなみに娘の名はスジャータ。
「コーヒーにスジャータ」むかしCMで聞いたことあります。
「白い安らぎ♪」の意味はこの出来事が由来なのかは分かりませんが、味をマイルドにするのは確かです。
お釈迦様ですら継続をあきらめました。
1つの考えにこだわるのは、人生を狭くする場合もあります。
「辛い」と思うことを続ける意味が見いだせないのなら、いっそのこと「その思い」を手離してはどうでしょう。
おわりに
何がいいのか、何がよかったのかは、人生終わってみなくちゃ分かりません。
ただ1つ言えるのは、結果も大事だけど、結果にいたるまでの過程(途中)も大事だということです。
「人生、楽しんだもの勝ち」とか「笑った者勝ち」ということばがあるように、苦しいだけでは人のモチベーションは続かないし、もたないものです。
つきなみですが、一気に頂上まで駆け上がるよりも、山の中腹で休憩して景色を眺める余裕も人生には必要ではないでしょうか。
▼自分の発言に責任を持つのも大概に!
リンク頑張ってもダメだったら行動を変えてもいいの?幸せの選択を右脳は知っている
▼自分の思いに忠実に生きるだけで幸せになれる。
もっと探してみる