「人と争っても仕方ない」「一歩自分が身を退くことで場が和む」というような「あなたのお好きにしてみては?」という考え方が、実はストレスをうまない能力だと思うのです。
なんか他人の言いなりになっている様で余計ストレスになるって思うことでしょう。
確かに最初はストレスです。理不尽な状況なのに理不尽を受け入れるのは正義に反するとも思うからです。
でも人は訓練によって進化します。本来は理不尽な状況なのに、それをストレスとは思わないようにもなれたとしたら、こんな素晴らしいことはありません。
「もう、お好きにどうぞ」は心が成長したサイン
「もう、あなたのお好きにやったらいい」っていうと、呆れてしまった結果の言葉ともとれますが、ココではニュアンスがちまいます。
本当に心の底から「どうなってもかまわない」という意味です。どうしてもたえがたく納得いかないことに対して執着がなくなった状態ともいえるでしょう。
あなたが先を譲った人たちよりも、1つ高い位置から状況を見れるようになったという心境とは成長したあかしともいえます。
もし「お好きにどうぞと思えた」としたら、「本当におめでとう」ってわたしは拍手を贈る次第でございます。
「もうお好きにどうぞ」と思えるようになれた自分に酔いしれて、もっと「お好きどうぞ道」を極めていきたいものです。
そのためには、なぜ心の器が広がったのかをふり返ってみることにします。
こだわりを捨てると楽になる
「わたしとはこういう人」という決めつけを捨てると本当に心穏やかに過ごせるのは、誰とも競争しないくてもすむからです。
つまらないプライドを守るための競争とは、穏やかな人生の大敵です。そんなこだわりを捨てるだけで本当に楽に生きられます。
人は過去の栄光にしがみつく習性を持っています。いま幸せじゃなかったり、いまいる場所で有利な立場じゃない人は、特に過去の自分にこだわってしまうでしょう。
冬になったのに半袖にこだわってはただ寒いだけで何の得もありません。素直に暖かい服に着替えれば快適になれますからね。
わたしの部署に嫌われ者の上司がいます。ところが当の本人は気づいていないご様子です。何故かと言うと、「自分が抱く上司像」にこだわっているからです。
たしかに甘やかしはよろしくないのは当然です。でも、厳しさと躾(しつけ)時と場合と人によって許しも必要なスキルです。
会社勤めが長い上司だからといって、全て正しい判断が出来るのでしょうか。新人だからといって間違っているとは言えないものです。
なぜなら、人は誰一人としておなじ道を歩んでいないからです。
誰だって自分の意見を否定されたら面白くはありません。それが毎日では反発されること間違いなしです。
人が誰かに素直になれるのは、「自分のことを受け入れてくれる人だ」と知ることです。
いまある現実を受け入れる
いまのあなたの置かれている場所や立場が自分の理想とはちがうこともあるでしょう。
文句をいったり、なげき悲しみ、反感をもった態度ですごしていても、ただ無意味な人生になるだけです。
なぜいまあなたはその場所でその立ち位置でいるのでしょうね。ちょっとふり返ってみてくださいよ。本当に外部的要素(不運・他人の責任・巡り合わせ)によって報われていないのでしょうか。
たしかに状況を変えるためには「もがくこと」も時には必要です。しかしながら、事態を変えるためには確かな情報が不可欠です。
そのためには、ジッと冷静に疑いのない目で、いまある状況を見澄ます穏やかさが必要な態度になるのです。
人の優れているところを認めて、そこからあなたに足りないものを学び取りましょうよ。くれぐれも嫉妬や見下しや意地悪返しをたくらんではいけませんからね?
もし初心に帰って謙虚な思いになれたとしたら、きっと「もうお好きにどうぞ」と思える様になれるでしょう。
おわりに
もし「あなたの好きにやってくださいな」という穏やかな気持になれたとしたら毎日が天国になるはずです。
どんな人でも人を受けれてしまう人を好きにならない人がいるのでしょうか。
わたし自身、強いこだわりを持つタイプの人間です。でも、たくさんの失敗によってこだわりを捨てる練習を続けています。
ところがそう上手くはいかないものです。理不尽なことばかり起こるからです。
「どっちが正しい」とか、「人はこうあるべきだ」とか、そんのは人の思い込みです。
どうせこだわるのなら、これからの時代は、「こだわらないこと」にこだわって見るのも1つの生き方だと思うのです。
「こだわりを捨てる」のと「流されて生きる」のは紙一重の考え方です。人生、ときには戦うことも必要です。が、戦わずして勝つ人がいるのも、また人生の面白いところですよね。
▼離れられない関係なら、子供タイプには大人になった方が早いです。
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