「無償の愛」の一言で、片付けられないのが年老いた親の面倒です。
赤ちゃんのお世話とは「これから生きるための準備」
それに対して老いた親の介護とは「旅立つまでの世話」
そこに未来の可能性を感じられません。苦痛になって当然です。義務や義理だけでは不十分。
家族との関係をビジネスにしてもいいのでしょうか。
歳をとった親の面倒をみた見返りに、お金をもらうのはありなのか?
70代の母は原付(50cc)の免許更新をするため、わたしに送り迎えを頼んできました。田舎なので交通機関が少ないからです。
なんでも、高齢になると認知機能をはかるテストがあるらしく、最寄りの教習所まで自分を乗せていって欲しいとのことでした。コンビニに突っ込む高齢者の事故が印象的ですよね。
頼み事などは滅多にしない負けん気の強い70代。けれど道が分からず不安。季節は冬なのでバイクでは寒い。歳のせいなのか、素直になった方が楽だと悟ったのでしょう。
そんな中、自分の送り迎えのお駄賃として1万円を私に差し出しました。車で送迎しただけで1万円は超高額なアルバイト。昼飯でも良かったんですけどね。
正直お金は欲しいです。収入も多くはありません。子供も成長し出費も増えています。必要なモノを買うのに躊躇している最中だったりもする、(-_-)
でも親の送迎ごときでお金とは、ちょっと複雑な心境になってしまいます。車で片道30分程度、1時間ちょっと終わる用事、別に会社を休んでいる訳ではないからです。
高齢者にたかるダメ息子に思えて何だか自分が惨めに思えてしまう。いや、親にお小遣いもあげられないのだから、その時点で駄目なのかも知れない(´Д`)ハァ…
そして、わたし自身親になり、親の苦労を理解できる様になりました。そんな人からお金を頂いてもイイの?バチ当たりじゃないのか?
ですが結局、そのお金は素直に頂いたのは「有り」だと判断したから。それがこの記事の前振りです。
40代になったオジサンでも母にとっては永遠の子供。ちょっと早いクリスマスプレゼントだと考えましたよ。
私の上司は「老いた両親」と「障害のある妻」と「子供」を持つ中間管理職
わたしの上司は、家族のためにせっせと動く人間です。
子供たちは学生から社会人になる年代です。自立するための最後のお世話をする時期ですよね。住む場所や車を買ったり、就職の準備など色々と世話をやいています。
奥さんは体が不自由な身。1人では車は運転できません。上司が常に足となり、家の用達をしています。
両親も介護が必要な身。入院している父のため、週に何度か洗濯物を取り替えに病院にいっているそうです。
そして会社では
年配部下に逆ハラされ
えこひいきな上司がいて
能力の無い新人でも自分と変わらない給料がもらえる会社に”いきどおり”を感じています。
正に、お世話しっぱなしの人生。
子供がいて家のローンがあるのに奥さんは働けなくなった。親は介護状態。本人も安月給の身ではお金にシビアになっても当然です。
いまこの記事を書いているのは12月。きっとまだコタツは出してないはず。上司の家ではそれが当然だと言っています。「寒いときは運動で体温を上げる!」そんな人柄です。
ところが近ごろ様子が変わり、好んで残業¥もしなくなり、部下にジュースをご馳走したり、自分の趣味のアイテムを買ったりと、以前よりも羽振りが良くなっています。
よくよく話を聞くと、親の用達をする見返りにお金や品物をもらっていた。
別の家で暮らす母親をスーパーや病院などへ車で乗せていってあげること。その他にも色々と面倒をみるお駄賃として(食料・金)をもらっているそうです。
確かに「親の年金とかもあるじゃない?」と思う人もいて当然です。ですがそれは現役時代に高収入だった人の話。そうではないと聞いています。
話を戻すと
「そういえば、上司もお金をもらっているって言ってたっけなぁ・・」わたしと母とのお金のやり取りの時、この上司のことを思い出したと言う訳です。
最初わたしが母からのお金を拒否ったときに、母はこう言いました。
「この寒い中、バイクで来るのは大変だった。道もよく分からない。タクシーを待たせたら高くつく。本当に助かったよ」と、
本当に母はお喋りです。ずっと1人で話をしています。まったく人の話は聞かないタイプ。いつも愚痴か苦労話をしている、そんな話を聞くのは苦痛です。
こんな話、タクシー運転手には話せないでしょう。反論もせず、いい感じに相づちを打つ私によって、ストレス発散になったんじゃないかと思うのです。
つまり、
お世話になった感謝の気持ち
重荷だと思われたくない想いの現われ
温かい車で道に迷わず確実に送迎してもらえて、外で待たせても気兼ねが無く、話も聞いてもらえる特典付きな、しかも相手は、ちょっとおバカな可愛い我が子。
母にしても自己承認欲求と優越感と、何らかのリターンがあるかも知れない投資にもなり得る行為だった。一万円払って損はないのでしょう。
お金を受け取って置けば、わたしに用事を頼みやすいとも考えましたよ。この勝負、わたしが負けることですべて丸く収まるのです。(-ω☆)キラリ
そして最近テレビで「介護される側の心得」として、こんなはなしを聞きました。
お世話になるたびに少しだけ現金を与えること
「お金」という手段で自分の介護を「仕事」だと思えれば、世話人の負担も減るって言っています。
「親だから世話をして当然」って考えるマジメなタイプが介護疲れで”うつ”になる人もいるそうです。
本当はお世話したくないのに仕方なくやっている人もいるかも知れない。義理の親や、突如面倒を見る羽目になったケースもあるかと思います。
介護される側としても迷惑はかけたくない。本当は子供に面倒を見てほしくないって人もるかも知れない。
私自身も身内に自分が弱った姿を見せたくはありません。それも健康オタクな理由の1つになっています。
老人ホームや施設は料金が高いです。本当は「こうして欲しい」って要望があっても立場上なかなか言い出せず我慢をしている人もいる。
つまり、定期的に「お金」と言う形式を用いて、介護=仕事としてドライに割り切って関わってもらえれば、介護する人もされる側もwin winになるという訳です。
おわりに
老体にムチ打って稼いだお金。これを何に使うのか?で、自分に良い言い訳に変えられるとも考えました。
どういうことかと言うと、私に関連する同じ様な立場の人へお金を使うことで、いい流れになるんじゃない?という法則のことです。
たとえば次の展開もなく、何の生産性もない無駄遣いや、その場しのぎの一時の快楽には使わないこと。
もらった人が何に使おうが自由です。ですが、本人が本当に必要としているモノやコトにお金を使ってくれたらあげた方としては嬉しいんじゃないでしょうか。
たとえば、わたしの家族のために使ったことを知ったとしたら母はちょっと救われるような気もします。
もし種を買ってまいて野菜を育てて「これもらったお金で作ったから食べてね」って野菜を持って来たら、和がつがなりますよね。
でも最近、超倹約状態なので「一杯やりたい」のが正直な気持ちです(#^.^#)
ケチと倹約は紙一重。あの世にお金は持っては行けない。金は天下の回り物といいますし、遠慮なく頂いてもイイかと思いましたよ。
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