永らく私達を苦しめてきた社員が会社を去ることになりました。
わたしの会社では送別会は絶対の風習ではなくケースバイケース。やったりやらなかったりな歴史です。
そうは言っても最後です。グループリーダーが発起人で、お別れ会を提案しましたが、当の本人はノーサンキュー。
「では身内だけで(本当に近い人、数人)」という流れで会を開く流れになりました。本来”おめでたい席”のはずなのに、なぜ本人は乗り気になれないのでしょう。
送る側も、いずれ送られる日がやって来ます。同じ轍を踏まない生き方をしたいものです。
送別会を断るには理由がある。誰もが円満退社とは限らない
「お祝い」に該当しないこともある
せっかく送別会を開こうというのに、なぜそれを断るのでしょうね。人それぞれ事情もあるし、様々な理由があるかと思います。
- 会の主役になるのは照れくさい
- 忙しいスケジュールを割いては申し訳ない
- そんな柄じゃない
などならまだ誘いようがあります。一押しすれば来てくださるかと思います。けど、
- 働けない事情が出来たので泣く泣く辞めて行く
- 意地悪やモラハラで他人を苦しめてきた
- 送別会が恒例になってない(人によって)
- 同じ部署の業務内容的に日程を決めづらい
など、もしこうだとしたらどうなのか。実はこれ、今回わたしの部署の人のこと。
自分達を苦しめてきた人間です。「できれば辞めて欲しい。やっと居なくなってくれる」って人を「なぜ祝わないくてはいけないの?」と思うのが普通です。
そして恒例になってないことも相まって、大々的な送別会は開きませんでした。
本当は辞めたくなかったのかも?
現代に置いて、高齢者の雇用は国が進める改革ですよね。雇う側にもメリットはあります。
- 人手不足の解消
- 低い人件費ですむ
- 新たに社員教育しないですむ(事故・ミス・リスク回避)
高齢者といっても、若い人たちとほぼ同じ業務内容をしてくれるので、本来ならこれからも働けたはずでした。
それでも辞めざるを得なかったのは、
- 体調を崩してしまった
- 現役世代と同じあつかいになるから
だとわたしは勝手に推測しています。なぜなら四六時中その人と一緒に働いて見ていれば分かるかでしょう。体調がよろしくない感じで会社を休みがちになりました。
そして社風の流れが代わり、ちゃんと仕事をしないスタンスの人にとっては”向かい風”になり始めています。
つまり今までのやり方(ズル・インチキ・手抜き仕事)は通用しなくなってきました。さらに年金受給も始まってお金には余裕があるそうです。働くモチベーションも低下。
苦しめた相手を助ける義理は無い。助けることが規則違反に
そしてこの退職者は今まで、たくさんのモラハラをしてきました。
- 言葉の暴力
- 仕事の揚げ足取り
- 人が嫌がることを常に言う
- 自分勝手な仕事をする・強要する
- 大人しい年下の上司をいびる
- 本来自分の仕事を他人にやらせる様に持っていく
- 何かあった時の責任が相手になる位置にいる
- ターゲットの矛盾を常に探し見つければ追い込む
結局みんな折れてしまいます。学習性無力感ってやつで「相手にしても仕方ない。この人はこう言いう人」と、言いなりになって来ました。
この人の理想とは自分が親分になるのではなく、そこで力がある立場(管理職)に裏で指示をして、自分の意のままに使うこと。黒幕的存在。ψ(`∇´)ψ
なぜなら何かあった時「私は知りません」と言い逃れできるから。そしてその考えが上手くいったなら「俺が考えた」といえます。
そんな感じなので、自分より強い人には大人しく、弱いと分かれば攻撃するのです。
わたしもいままで色々な人と出会ったけど、こんな人は見たことも無い。自分のメリットのためなら、さっき自分が言った言葉でさえ、簡単にくつがえしてしまうからです。
わたしの感覚では、一度言葉にしてしまったら、たとえ自分が不利なると分かっても、そう簡単に撤回できません。変わるのには時間が必要です。
なぜ本来は力の無い社員がのさばって来たのか?と言えば結局は自分達の責任なのでしょう。とはいても会社側がシッカリしてないからなのは大きです。
何でも有りな社会になったとき、ちゃんとできる人もいれば、見てないところで悪いことをする人はいます。ルール作りと破ったときの罰は本当に重要だと噛み締めています。
結局そんな人が困ったときに、
- 歳だから
- 助けてあげよう
- 大目に見てあげよう
など思われないだろうし他のことも考えたら、「働き続けるのは割りに合わない」と本人は想ったのだと感じています。
そして今までの”手抜き仕事(独自の)”が通用しない今。それが出来ないのなら辞めるしか選択肢は無くなってしまった。
「助ける(モラハラ人の都合)=規則違反」ではどうすることも出来ません。正に自業自得です。
人は「自分が見るもの」で人を見てしまう
苦しみの根源は自分の思考のせい?
『人を量る秤で自分が量られる』キリストの言葉です。わたしは信者ではありませんが、これは世の原則だと感じています。
言い換えれば「量る(はかる)ように量られる」。つまり与えた分が返ってくるし、与えなければ返って来ないってこと。
イケメンでない人が「いい女」を求めても、その女性も外見(資産)を求める傾向にある。性格美人を求めるのなら、自分も相手を思いやる行動を取るしかないのです。(/・ω・)/
そして今回のモラハラ退職者に差し替えると、
「自分が考ることは他の奴らも同じ様に考えるはず。そう見えているし同じ様に感じているに違いない」と相手を勘ぐってしまうこと。
でも事実はそうとは限りません。
たとえば「自販機でおつりを取り忘れてしまい、後で気がついた」とします。
- 「誰かに取られてしまう!」あわて戻る人
- 「きっとまだお釣りはある。無かったら交番に行けばいい」穏やかな人
「ネコババされる」と思う人は「交番にあるから安心だ」とは思えません。逆もまたしかり。
意地悪をされたことが無い人に対して何か仕掛けたとしても「自分がハメられた」とは想像すら出来ないのです。なぜならそんな発想が浮かぶ様な学習をしてないからです。
極端な話、天皇陛下が晩餐会で客人が座ろうとするイスを引っ張って、ひっくり返したら面白いかも!!なんて想像すらできないはず。ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
イスに画鋲(がびょう)が置かれていても「誰が置いたのか?」ではなく、「壁から落ちたかな?」と真っ先に考えるはず。やられる心当たりも無い人がそんな想像をするのでしょうか。
そう考えるとモラハラ退職者は今までたくさん迷惑をかけてきました。「もし俺がやられた側だとしたら意地悪返し。やり込めてやる!」って考えると疑心暗鬼。
どうせ終わるなら、いままで築き上げてきた”武勇伝”のイメージのまま、最後の時をむかえたいとすら考えたかも知れません。
これ以上自分を傷つけたくない
他人を傷つける人とは、自分が傷ついてる人間です。本人にとっては正当な理由だったのでしょう。ですがどんな理由があるにしろモラハラはやってはイケナイ行為。
「自分の最後の門出をちゃんと祝ってくれるのか?」もしかしたら腹いせに自分が傷つけられてしまうかも。最後の最後に仕返しに合うのでは?と恐れているかも知れません。
そして円満退社(時が来たから)で無い理由だとしたら「なぜ辞めちゃうの?体のどこが悪いの?」と、その理由を問い詰められ、白日の下にさらされる恐怖もあったりします。
なぜなら突然このことだからです。そして「会社を辞める=力が無くなる」を意味します。そう考えると保身に走るのは当然の心理ではないでしょうか。
おわりに
辞めて行く人に対する悪口になってしまいましたが、こうして書いていくと、人付き合いとは正に因果応報。
自分が気づかないことは仕方ないけれど、確信的なモラハラは慎むべきだとしみじみ感じました。
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