最近、様々な分野に置いて、昔やっていたことを、またやる様になりました。でも不思議です。以前とは全く思い入れが違います。同じ行動なのにです。
それは「人は目的によって動かされるから」です。
〇〇の部分は自分なりに解釈して読んで見てくださいね。
家庭菜園を始めたキッカケは自分の意志ではない
何気ない自分の行動が誰かに評価されることがあります。わたしの場合、今回のテーマである家庭菜園をやったこと。
わたしはこの記事を書く約10年前に家を持ちました。田舎ということで、結構広い土地が格安で買えちゃいます。
理由はさて置き、当初、空き地化していた庭の隅っこにプチトマトの苗を一本、植えました。
全く興味はなかったけど、面白いもので植えた苗の様子が気になります。収穫も楽しみになりました。お弁当にも使えます。
そんな時「これも植えてみなよ?」と、隣で家庭菜園をやっているおばちゃんが色々と苗をくれるのです。
正直ノーサンキュー。けど優柔不断でイイカッコ主義なわたしとしては、相手の気持ちを無視できず・・がキッカケで家庭菜園にのめり込んでいきました。
人は誰かの”役に立つこと”で存在意義と自己重要感を満たせる
そんなわたしにそのおばちゃんが言いました。
「お宅が引っ越して来る前、その土地は草ボウボウ。草刈り機を使って大変だった。ホント助かる」とのこと。
確かに当初、人の身長ほどにもなる雑草が生えてきて、夫婦ともに格闘しました。隣としては色々と不都合だったことでしょう。根は侵入し、花粉や種の影響もありますからね。
そして、おばちゃんとは別のお隣さんも畑をやっています。こっちは半プロ。畑仕事の最中、この御老人もわたしに一言いいました。
「いや~、お宅が来て草刈りの手間が無くなって助かったよ。日当たりも良くなった。」同じ様にわたしに感謝の意を表明です。
そしてある日のこと、リビングの窓の外に誰か立っています。そのお老人がプイッと現れ、自身が収穫した野菜をたくさんくださったのです。( ゚д゚)ハッ!
きっと、自分たちと同じことをやっていることに共感し「若いのに関心だ」と思ったのかも知れません。畑の手入れは大変ですからね。ただ嬉しかったのでしょう。
「あ~わたしって結構イイことしてるんだなぁ・・」と我ながら少しほこらしかった記憶となっています。
楽しかった”土いじり”はフェードアウト⤵心境に変化
ところが、数年して手を抜く様になりました。それもそのはず、始めた動機が自分発ではないからです。そして、
- 思うように実らない
- 雑草や蚊や寒さ暑さとの戦い
- 大量に収穫。食べられず廃棄に、いきどおり
- ギターを始めた(指の保護。草むしりは指を酷使する演奏に影響)
- 残業続きで時間が無い。仕事の疲労
出来なかった理由を上げだしたらきりがありません。
キッカケが他人からの称賛だとしても充実した日々でした。当時無料ブログをやっていてコメントを貰えるのも楽しみでした。
やがて、「栽培する楽しみ」から「食べるために(食材)」へと心境の変化。完全にやっつけ仕事です。会社の同僚も家庭菜園をやっていて同じ沼にハマってましたよ。
そして、ここ3年にいたっては、野菜は一切つくってません。切り落とした生け垣や大量の雑草を埋めるために穴を掘っています。そのスペースの確保も理由の1つです。
⇒庭穴掘りは「アウト・イン」がコツ?刈った枝草の処理場にしたい
最終的には、除草剤で管理する様になりました。手抜きです。
期待させた程に失望は大きい。けど人はやり直してもイイ
けど人って「一度真剣に長く続けたこと」って、止めてからも気になるものですよね。
リビングのカーテンをチラッとめくって元畑エリアを眺め(確認して)ため息をつくのが日課になっています。わたしの心境としては、
- 隣のおばちゃんも、野菜をくれたおじいさんも、ガッカリしてるだろうなぁ・・
- 雑草がボウボウで、適当に穴を掘って地面はデコボコ。刈り取った枝、山積みの雑草。みっともないよな・・
- 「何で、そんな管理できない程の広い土地を買ったのか?金の無駄遣い。バカ」
- 土地を活かせない無知(お金に換える=土地を貸す、野菜を出店する、ソーラーパネルとか)」って思われてるだろうなぁ・・
- 「このままではいけない・・何とかしなくちゃ・・」と思いつつ、手をつける気も無く、
という具合に。
そんな中、会社でもプライベートでも色々とありまして、自己改革の結果、目的が変わります。その要因の1つがアドラー心理学です。
「原因があって結果があるのではなく、人は目的によって自らは動く」的な発想の哲学です。
「トラウマは存在しない。人は出来事の中から自分に都合がいいものを見つけ、自らがそれを選んでいるだけだ」という理論。
つまり「起きたことの結果とは全て自分の責任だ」という、実に厳しい考え方です。
そう、全ては自分が選択した結果のこと。てことは、「自分が変われば人生は変えられる」
「物事に良し悪しなど無い。それぞれが勝手に意味づけしているだけ」心からそう思えてしまったのです。
そして、幸せな人生を送るための考え方として、「共同体感覚を身につけること」を最重要課題として提案しています。わたしもこれに共感です。
簡単な話、「社会的に有用な人間になることを目指す」それが悩みの無い人生を送れる秘訣で、成功するための方法。
「誰かの役に立っている感覚が生きる勇気も与えてくれる」と言っています。
その視点でいままでの自分を振り返って見ると、「悪いのは相手だけじゃなく自分にも原因はあった」と理解して腑に落ちました。色々と実践していくうちに、あることに気づきます。
たとえ自分の土地であってもこの場所は共有物。
荒れ地化した土地によって、景観を見出している事実。我が家からすれば畑エリアは裏手。でも、お隣さんからしたら目の前の風景です。
この土地には物理的な境界線はありません。我が家の雑草はおじいいさんの畑に広がりを見せています。引っ越して来る前に逆戻りです。
けど、そこはもうわたしの土地。管理する義務もあり、道徳的にも倫理的にも、草刈りをするのは当たり前のこと。でも伸び切ってから草むしりをする有様です。m(__)m
同じ様に家庭菜園をやっている人からしたら、バカにしている様なものです。
おわりに
自分がそうなったのはもう過ぎた過去。これまでの自分を受け入れて次に活かせれば、それはそれで価値ある人生だと思います。大事なのはこれからです。
いままでは、「くさむしり、やらなくちゃ」という「やらせれている思考」で動いていました。けど今回は違います。
草むしりや畑作りで、気分もスッキリ「自分、ちゃんとしている!」という地域コミュニティに参加している自覚が精神安定剤になっている。同時に、景観を良くしてご近所に貢献もしている。
実践している人からすればきっと、当たり前のことなのでしょう。
正に、アドラーのいう共同体感覚になることによって悩みが減りました。ほんの些細なことですが、今回「境界線だからこそ”きちんと草むしり”をしないとね」の心境でやれました。
社会的に有用な人間になれた、なれる様な気がしています。この気持を大事にしたいと思います。
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