
未来とは、「今、どう生きたのか」の反映でしかない。
ということは、今からでも未来は変えられる。
筋肉痛は輝く未来への洗礼
わたしの仕事の内容は、歩き回ると言っても過言ではない業務。
先日お山筋トレでふくらはぎを破壊したせいで、普通に歩くことが困難になった。
なので一歩一歩を踏みしめる様に歩いた。
ここまでの筋肉痛は多分初めてだと思う。
それはただの筋肉痛であって、関節痛の症状や、筋力低下による歩行困難ではない。
そして破壊された筋繊維は数日後には、それまでより少しアップデートされる。
だからこの痛みとは「未来への希望の洗礼」とも言える。
不自由な身体になった自分の未来を想像してみる
ところがもしこの歩きにくい状態が筋肉痛ではなく、医者で治療する様な症状や、加齢による肉体の老化だとしたらどんな心境になるのだろう。
実際に今日いつもの様に、仕事を終えて職場から駐車場へと、部署の仲間数人と歩いて向かった。
わたしはみんなと同じペースで歩くと痛みが出るので、「お先にどうぞ」と階段を下りる途中相手に言葉をかけた。
わたしは痛みが出ない様によちよち歩き。
次第に仲間たちの距離がどんどん遠ざかって行く。楽しげな話し声もフェードアウト。
そしてわたしは自分が歩く速度に対して少しイライラし腹が立った。
実はわたしは人一倍歩くスピードが速いせっかちさんでもある。
いまの自分が未来を創る
わたしは高齢の母と初詣に行ったときを思い出した。
それはわたしと兄は話に夢中になって、ついいつもの歩行速度で歩いてしまったせいで、母を置いてけぼりにしたこと。
母は不満な顔で私達に付いて行くのがやっと。
それでも母は高齢になっても働いていたので、歳の割には体力はある。
義理母はわたしの母よりもずっと若いのに、すでに歩くことが困難。それは日常的に歩かなかったからだ。
もし自分が老人になった時、これと同じ未来になったとしたら?と想像したら、とても切ない気持ちになった。
そんな未来なんて嫌だ!
もしAIが発達してもマンパワーの業種は失くならないとわたしは想定している。
そうなると、自分で食っていける生身の身体というデバイスは不可欠。
それには今、聡明な考え方が出来、それを実行する頭というソフトをインストールする必要がある。
もし稼げないにしても医療費を最小限におさえることで、出費を減らせることにもつながるはず。
もしかしたら人が自分の足で歩かなくても済む未来が来るかも知れないが、歩ける範囲は広くないと思う。
筋肉は何歳になっても再生可能。
歩けなくなってから、歩こうとしても歩けない。そんな人はたくさんいる。
今回の筋肉痛の教訓として、「いつまでも若くいるためには、いま、日々の積み重ねが必要」だと再認識した出来事となった。
おわりに
若い内から身体を気遣うことは、未来への投資と同じだ。
自分の足で歩くことが出来れば、たくさんの選択肢と可能性があると思う。
そのためには、「今、どう生きるのか」しかない。
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